「壁」 陽春 3

はっきり言って、気が進まなかった。それは十四歳の陽春の、子供なりの正義感からであった。脆弱な正義感とでも言おうか。貧しいも、優しい両親、姉たち、そして兄と慕う好可に囲まれ育った陽春は、聡明で真っ直ぐな心を持つ少年に育った。決まりを破ってはいけない、嘘をついてはいけない、人に嫌われるようなことはしてはいけない。亡き父の教えは、今も忘れてはいない。
もちろん成長とともに、その教えが誰もが守り通せることではないということも悟った。世の中を見渡して見れば、父の教えがとても青臭いようにも思える。国の禁を犯すもの、詐欺行為をはたらくもの、窃盗や殺人を犯すもの。陽春の暮らす国はとても治安が良いとは言えない。だから犯罪はそこらじゅうに溢れていた。その上、その犯罪を取り締まるはずの役人どもまで、それら犯罪に加担している場合もあった。誰もがそんなこと許せないと思っている。かと言って、自分から進んでその悪を取り締まろうとするものはない。自分に被害がなければ、それで良しとする。国民は皆、そういう気質の持ち主であった。
陽春自身はどうか。確かに、自ら進んで悪を正そうとする気概はない。第一、その力がない。ただ、自分はそれらの悪には、けして染まるまいという強い気持ちがあった。父の教えを守れば、少なくとも自分の思う悪に染まることはない。とはいうものの、陽春も些細な決まりごとを破ることがあったし、嘘をついたこともある。人には嫌われないよう心がけてはいても、時としてうまくいかないこともあった。そこで陽春は、妥協する。極力、守る。守るようにする。これが彼の脆弱な正義感であった。
問題がある。夜に煙をあげるのは、規則にはないこと、そして、夜番を一人で務めることもまた、決まりに背いていることである。夜間に『壁』をこえる侵入者があった場合、三人の夜番の内、一人は侵入を妨げる防御行為をする。一人は寝ている台の他の兵士を起し、迎撃に加わる。そして最後の一人は、苣火と呼ばれる巨大な松明で、近隣の台に急を告げる。そのように定められていた。
ただ、この台の決まりでは、満月の夜の侵入に限り、この規則を守らなくても良いという決まりになっている。
陽春にすれば、何鮮に言いつけられたように、この台の決まりを守ろうとすれば、国の規則に背くことになり、国の規則を守ろうとすれば、この台の決まりに背くことになる。八方塞がりであった。ここで、彼の脆弱な正義感が頭をもたげる。
この台でいつまで働くことになるかはわからないが、仮に兵役のすべての期間をここで過ごすとすれば、あと五年はここで働くということになる。そうした時、この台の決まりを守らないものが、気持ちよく五年間を過ごすことが出来ないのは、簡単に想像することができた。何鮮ら先輩兵士の機嫌を損ねるのは、自分の未来にとって、けしてプラスにはならないだろう。
また、現時点で台に居るのは自分一人で、隣の台に居る、近隣の台を管理する上官に、自身の境遇を説明する為に台を離れれば、この台は無人となる。万が一、その時に蛮族どもが大挙して侵入してきた場合、それこそ取り返しの付かないことになる。満月の夜は、絶対に一人の侵入しかないという何鮮の言を信じるとしても、その侵入者が台の無人を仲間に知らせないはずがない。
 
「仕方ない。」
陽春は意を決した。台の決まりに従うおうと。
実際は、何鮮たちが出かけてしまった段階で、どうにもならないと心のどこかで思っていたが、こうして逡巡することを、彼の脆弱な正義感は求めた。誰に言い訳するでもないが、国の規則を守れない自分を正当化する理由を見つけたかった。
いったん決めてしまえば、心が軽くなった。どうせ他の台にばれることはない。仮にばれてしまっても、台全体の責任になるし、今後はこのような葛藤をしないでも済む。相応の罰があるだろうが、五年間台の仲間に嫌われ続けるよりは、棒打ちの刑の方がマシなようにも思えた。
何時間が過ぎただろうか。陽春は睡魔と闘いながらも、懸命に立ち続けた。瞼が重い。視界はかなり狭くなっていた。
ふと気がつくと、 関城の上に人影が見える。陽春は一瞬で目が冴えた。

2010/10/29 | 創作

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