「壁」　陽春　５

陽春はガタガタと震える身体を、両の腕で必死に抑え込んでいた。侵入者が大城を越えたのを、自分の目で確認したためである。もうすぐ、侵入者は見張り台の自分のところへやってくる。おそらく、自分は殺されてしまうだろう。
それにしてもわからないのは、侵入者が何故引き返さないのか、である。藩の上まで到達していたではないか。目的を達成したのではなかったのか？
ここに至っては、暗黙のルールなど元から存在していなかったとしか思えない。何鮮が嘘をついていたとも思えないが、今日、この日を以て、これまでの見せかけのルールは破られたということだ。過去何度、満月の日の侵入が繰り返されてきたのか知らないが、これは侵入者たちの狡猾な企みによるものだったのだろう。
『満月の日の侵入者は、藩に到達すればそれ以上は何もせず帰っていく』
これは一種の刷り込みなのだろう。陽春はそのように考えた。我々にそう思い込ませ、いつか油断に付け込んで襲いかかる。もともとそういう計画だったに違いない。
だとすれば、自分はなんて運が悪いのか。まさか、その裏切りの日の見張りが自分になってしまうなんて。一瞬、陽春は自分の運命を呪った。だがこうも考えた。台の決まりに従おうと決めた自分にも責任があったのではないか、と。少なくとも、自分は侵入者が藩を越えて襲ってくる可能性についても考えたし、暗黙のルールを鵜呑みにしたわけでもない。自分の正義感に従って、何鮮たちが出かけてしまう前に、その非を糾弾するチャンスもなくはなかったのではないか。
しかしこうしてあれこれ考えているうちに、時間は過ぎ去ってしまった。今から苣火で近隣の台に異変を知らせようにも、準備にはそれなりに時間がかかる。自分一人では、見張りと、迎撃と、苣火の準備の三つを同時に行うことはできない。今ここを離れれば、侵入者が無人と思って大軍を呼び寄せる可能性もある。隣の台からの応援を待っている間に、待機しているであろう蛮族が押し寄せれば、結局自分は殺され、この台は突破されるだろう。
陽春は震える身体のまま立ち上がり、ぎこちなく剣を抜いた。侵入者と戦おう。もはや選択肢は残されていなかった。普通に戦えば、勝てる見込みはないだろう。しかし戦わなくてもほぼ死ぬことが決まった身である。死に物狂いで戦えば、もしかしたら勝てるかもしれない。少なくとも、相手も一人であることは間違いない。侵入者の腕がどれほどのものか知れないが、相手に助力がないなら、こちらの勝機もゼロではないはず。
ここから逃げ出すという隠れた選択肢もないではなかったが、死ぬのが今になるか、捕えられ、罰せられた時になるかの違いでしかない。そうであるならせめて、名誉ある死に方を選びたい。自分を送り出してくれた母や好可に、恥ずかしい思いをさせたくはないからである。
剣を握りしめる手が湿り気を帯びている。陽春は腰のあたりで両手を拭って、剣を握りなおした。
コツコツと階段を昇る音が聞こえ、やがてその音が消えた。
剣を構える陽春の前に、侵入者が姿を現した。手にはナイフが握られている。
松明に照らされている侵入者の顔が眼に映る。その顔はあどけなさの残る、少年のものであった。それは陽春と変わらない、あるいは陽春よりも幼い少年の顔だった。まさかこの少年がたった一人で？
陽春は恐怖を忘れ、その少年の照らされた顔をじっと見つめていた。