東北関東大震災 津波被害の記録 2011年3月11日
●はじめに
2011年(平成23年)3月11日14時46分発生の東北地方太平洋沖地震において、私は宮城県多賀城市にて被災し、
昨日(3月12日)仙台市太白区の自宅に帰宅できました。
今回の被災において亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。
怪我をされた方の、一日も早い回復をお祈りいたします。
行方不明の方の一日も早い発見、救出をお祈りいたします。
現在自宅では電気・ガス・水道のライフラインがすべて回復し、
こうしてPCの前に座ることができています。
未だ避難所で不安な日々を過ごす方がたに比べれば、いかに幸せであるかを深く噛みしめています。
今、ひとつできることとして、私が遭遇した事態について、
記憶が鮮明なうちに記録を残すことに致しました。
わずかながらでも、被害の状況を知りたい方のお役に立てれば幸いです。
2011年3月11日
普段通り、多賀城市にある雇用・能力開発機構宮城センターにて
職業訓練の授業を受けていました。
ちょうど午後の5時間目が終わろうとしており、IPアドレスについての問題を解答していた時でした。
不意に揺れを感じ、皆が揺れがどれぐらいになるか体で確かめようとしました。
3月9日にも少し大きいと感じる地震が発生していましたが、その時、担当の先生から
この教室は揺れやすいんだ、などと聞いていたため、最初は前回と同じぐらいなのかなと感じていました。
しかし数秒後、揺れは激しくなり、前回の地震とは明らかに違うことがわかりました。
すぐに私は机の下に隠れました。
机の上には天井から何かが落ちている音がします。
目の前の柱がギシギシと音をたてて揺れています。
後ろの席の人が机の下には隠れず、壁に寄り掛かって様子をうかがっているのがわかりましたが、
机の下に隠れた私が正しいのか、その人が正しいのか、よくわかりません。
すぐ逃げ出せるように机の下から出ようとも思いましたが、
もう少し揺れが収まるのを待った方がいいようにも感じました。
やがて目の前に机の上に置いてあった筆箱が落ちてきました。
私はなぜかその状況でも几帳面にその筆箱に、同じく落ちてきたシャーペンを仕舞いました。
そしてその筆箱をカバンにしまうと、机から出ました。
まだ揺れている気がしましたが、移動できるぐらいには収まったので避難しようと思いました。
もう他の大半の受講生も教室の扉の近くに集まっています。
先生が外に避難して下さいと言って、皆が移動を開始しました。
教室の外に出てみると、防火扉が降りていました。
避難訓練以外で扉が降りているのをはじめて見たように思います。
最後にチラと教室を見ると、天井から落ちてきた天井の破片のせいか、
白い煙がまん延していました。
階段を降りながら、「ああ、今一歩間違えたら死んでたな」と思いました。
そして、何故だか少し笑えました。
こういうとき、人は意外に冷静で、可笑しく感じるものなんだと思いました。
外の広場のようなところに皆が集まりました。
他の科の先生や生徒さんも皆ぞろぞろと出てきています。
皆やれやれと言った感じで、談笑などしていました。
私も他の何名かと一服していました。
ほとんど皆が集まったところで点呼があり、私の科の全員の無事が確認されました。
この時、今日はこれで学校は終わりかななどと、結構気楽に思っていたものです。
その後、事務を担当しているらしき方から津波警報が出ているので、
別の建物に移るよう指示がありました。
私たちは大きめの教室のある、新しい大きな建物に移動しました。
新しい教室で各自椅子に座って待機していました。
早くもケータイでテレビを見ている方もいます。
私もしばらくぼんやりしたり、隣の席のS君と怖かったねなどと談笑していました。
1時間ぐらいたったころでしょうか。
急に窓側の生徒が騒ぎだし、皆が窓から外を眺め始めました。
津波です。
最初はじわじわと水が溢れてきたように見えました。
しかしすぐに流れは大きくなり、目の前の車が流されました。
どこからか大量の木材が流れ込み、車や施設の壁にぶつかっています。
↓上の写真の2分後です。
どこからか、「俺の車が~」という声が聞こえます。
その声は笑っていました。
やっぱり、急な現実が受け止められなくて、笑っちゃうもんなんだと思いました。
どんどんと勢いが増してきて、建物の2階から屋上へ移動することになりました。
外の非常階段から屋上へ移動するのですが、移動の順番待ちをしている間に、
階段に木材がぶつかりだし、移動の音頭を取っている人が「こっちからはムリだ、もどれ~」と
叫びました。
この時、またやべぇ、逃げ遅れたか。終わったと思いました。
でも「ゆっくり急いで」と謎の標語を心で呟きながら、
反対側の階段へ急いで向いました。
屋上に上がってみると、悲惨な光景が広がっていました。
ちょうど雪もぱらつきだし、悲しい気分がこみ上げます。
しばらくして、2階に戻れるようになりました。
この時、今日は絶対帰れないと悟り、電池があるうちにほうぼうへ連絡しようと思いました。
しかしそれは皆が考えること。
この時点で、電話はつながらず、とりあえずメールを2、3通送信しました。
いろいろ考えた結果、ブログを更新しました。
友達の何人かはなんとなく見てくれると信じて。
この時、ツイッターやっておけばよかったと後悔しました。
皆で徐々に暗くなる中、ワンセグでテレビを見たり、
ネットで情報を集めたりしました。
そこで、今回の地震が宮城県だけでなく、東北、関東の大きな範囲を巻き込んだものだと知りました。
ことの重大さがわかったようなわからないような、現実が受け止められないとはこのことです。
私は念のためケータイの電池を温存しようと、ネットを見るのをほどほどに留めました。
18時ごろになると、もう真っ暗です。
誰かが作ってくれたらしき、シーツをビニールテープでくっつけた毛布が配られました。
無いよりは遙かに助かりました。
それぐらい、辺りは寒くなっていました。
することもないので、仮眠をとったり、
たまに外にでて水位を確かめました。
確かこのあたりで奥さんから電話を貰いました。
どうやら自宅のほうは特段問題が起きてはないようです。
勤め先に泊まるという話でしたが、
もしちょっとでも抜け出せるなら、家の状況を見てきてほしいとお願いしました。
おそらくPCとその上の台のプリンタ、あとテレビは逝っちゃったと思いましたが、
車を失った方々のことを思えば、まだマシかなと思いました。
何時だったでしょうか。
急に廊下が騒がしくなりました。
私も廊下に出てみると、遠くで、でも目視できるぐらいには近い距離で、
ガスタンクらしきものが爆発しているのが見えます。
後で知ったことですが、これは近くの新日本石油のLPガス?のタンクが燃えていたそうです。
この時、今日3回目の、あぁ、終わったなを感じました。
すぐじゃないとは思いましたが、数日後にはこっちに影響が出るような気がしました。
この時点で先生から、自衛隊の救助がこちらに向かっていると聞きました。
しかし、この建物の優先順位などはわからないと言っていました。
少なくとも、向かいのソニー仙台テクノロジーセンターにも多くの人が取り残されている
のは容易に想像ができました。
こっちには食料は全くありませんが、あちらには少しはあるんじゃないかと思いました。
でもあちらはおそらく1000人ぐらいいるでしょうから、分配とか考えたら
どっちが幸せかな、とか考えながら眠りました。
2011/03/13 | 震災
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