東北関東大震災 津波被害の記録 2011年3月12日

2011年3月12日
フッと目覚めては眠り、また眠ってはフッと目覚めるのを繰り返して、
目覚めたのは5時半ぐらいだったでしょうか。
外は明るくなり始めています。
屋上に出て、様子を伺います。
昨日勢いよく流れ込んだ濁流は、幾分水位が下がっているように思いました。
学校のすぐ隣の家は新築3ヶ月だったそうですが、
どこからか流れてきた木材がぶっささっており、修復は困難に思いました。
屋上から少し離れたところに、こちらも流されてきたらしきタンクローリーが見えます。
昨日夜、そのタンクローリーの上には微かに人影らしきものが見えていました。
運転手さんだったと思われます。
他の生徒さんの話では、しきりに救助を求める声をあげていたらしいですが、
我々はどうすることもできず、夜があけました。
明るくなって運転席にも人影が見えなかったので、そこにはすでにいないのでしょう。
自力でどこかへ避難したか、あるいは流されたか。
これを書いている今でも、その方がどうされたのか知る術はありません。
また、S君の話では、別の方角から微かに「助けてー」と叫ぶ女性の声を聞いたと言います。
しかしどこから聞こえる声なのかもわからず、何もしてあげられない無力さを滲ませていました。
教室では、皆が何人かのグループになってニュースを見ています。
閖上は町が諸共流されたとか、荒浜に遺体が2、300人流れ着いたとか、
津波関連のニュースが流れるたびに、肝が冷えました。
日が高くなってきたからでしょうか。
どこからともなく、今後について検討する、前向きな雰囲気が湧き上がりました。
私の見た感じでは、昨日一度は上がるのをあきらめた階段下から脱出の目があるように思いました。
どれぐらいの深さがあるのかはわかりませんが、その浸水しているところを抜ければ、
水の引いた場所に出れるような感じです。
事実、近くの工場らしき建物から人が出てきて、様子を伺っているのが見えます。
そこはもう水が引いていて、普通に歩いているのです。
脱出については、皆が考えています。
学校の、違う建物は45号線の様子がかろうじて見えているらしく、
屋上では先生方が叫びあって情報交換をしていました。
聡明な同じ科の生徒さんは、干潮と満潮について調べがついたらしく、
どうやら9時ぐらいが干潮となり、最も水位が下がるのでそこがチャンスではないかと
おっしゃっていました。
8時ぐらいだったと思いますが、先生が科の生徒を集めました。
これから今後について話し合いがある、何か良い案があれば会議に持っていきたいので、
聞かせてくれないか、とのこと。
一応は秩序だった行動を行う為に、先生たちが会議をして今後の方針を決めるということでしたが、
先生方も被災者なのです。
本来の職務でもないのに、真摯な対応を行う先生方に頭が下がる思いがしました。
また、我々の意見も広く聴きたいという姿勢に感動しました。
我々の科では、今教室にあるテーブルを浸水している箇所に並べ、
即席の橋をつくってはどうかという意見が出ました。
私もそのように考えていたので賛成です。
45号線はどうやら歩けそうだという情報もあり、そこまで行ければなんとかなるという
気運が高まっていました。
ただし、45号線が繋がっているその先がどうなっているかはわかりません。
その先がもし、今のこの建物と同じような状況であれば、結局脱出ルートは
遮断されていることになります。
また、その脱出の移動を行っている際に津波に襲われた場合、
ほぼ命は無いは容易に想像がつきます。
そこら辺の危惧についても意見が出されました。
9時にはとりあえず何らかの結論を出すとのことで、先生は会議に行かれました。
私はもう一度屋上に上り、水位を確認しました。
現状私は脱出に際して、濡れないのが上策、濡れても乾かす手段があるのが中策、
濡れるのは下策と考えていました。
この学校を脱出した先がどうなっているかわからない以上、
目に見えるこの脱出に関してのみ言えば、濡れてはいけないように考えました。
季節は冬、水温は非常に冷たいでしょう。
もし眼下の水位と同じ状況が、45号線の繋がる先にずっと続いていた場合、凍傷にもなりかねません。
命が助かればいいじゃないか、とももちろん思います。
しかし、脱出した後、どこかの避難所に逃れることが出来た場合、
そこには我々以上に治療を受けるべき方が当然居ると思いました。
そうである場合、この津波を無傷で乗り切った我々は、
非難所での人手を割かせない為、無傷でそこに至ることが、他の多くの人を助けることになりはしないかと
思ったのです。
しかし私はここの軍師でもなければ、教導する立場にあるわけでもありません。
困難に遭遇して初めて、私の大望が果たされる時が来たかと思い、愚考を重ねただけです。
大勢に逆らうほど、愚かでもありません。
濡れてでも強行するとなれば、従うつもりです。
この期においては、皆で決めた一つの目標に向かって尽力するのが大きな力を生むのではないかと、
ここに披瀝するまでは秘しておきました。
すみません、話がそれました。
会議から先生が戻り、今後の対策が決まりました。
テーブルで橋を作る案が採用されたようです。
どうやら他の科の皆さんも同じ意見を持っていたようで、揉めた感じはありませんでした。
そうと決まれば実行あるのみです。
しかし、そのような中で異を唱える人がいました。
厳密には、そこまで大げさな口調ではありませんでしたが、その人は、
「橋を作っても、それでは足りない深いところがあったらどうする。
 机を並べた労力が無駄になる。いっそ泳いで行けばいい。」
おおよそ、こんなことを言ったと思います。
むろん冗談だとわかります。
しかし、この状況下、そんなくだらない冗談をよくも言えたものだと。
今、皆が一致団結して事にあたること、それこそが希望であることに気づかぬとは。
どこで読んだか、おそらく三國志で程の言ですが、
「愚民と事を謀ることはできない。」
というセリフが浮かびました。
他の方は知りませんが、少なくとも私はこのようなくだらぬ者に足を引っ張られて死ぬのだけは
御免だと強く思いました。
そしてその人を無視して、テーブルを運ぶ準備に取り掛かりました。
テーブルの移動はサクサク進んでいるようでしたが、たくさんの生徒さんの意思統一が
うまくいってなかったようで、テーブルは2か所の地点で橋になり始めました。
途中でコミュニケーションがあって、1か所にまとまったのは良かったと思います。
しかしここで現場判断というか、仕切りを行っていた生徒さんから、
テーブルを並べるのに時間がかかりすぎるという話が出ました。
予想以上に、水の深い距離は長いようで、テーブルの数を考えると、
並びきれるかも怪しいということです。
ここで空気が変わり、一転して濡れながらの強行という方針となりました。
脱出に当たっては、先生に出る旨を伝え、名簿のチェックを受けるよう言われました。
津波警報が出ている以上、リスクがあり、脱出はそれぞれの自己判断だと。
さらに脱出したらまずは多賀城市文化センターを目指し、もし途中で到達が無理だと判断したら、
急いでこの学校に戻ってくるようにと。
その後の人数確認に必要となるとのことで、名簿でチェックを受けて欲しいということでした。
このチェック、一人ひとり先生に言うんですが、
「山田(←仮名ですよ。あしからず)、行きます。」
などと言うんですね。
なんというか、死地に赴くみたいで。
特攻の時とかこんな感じだったのかな、と思うとやるせなかったですね。
チェックを受けたらグズグズしてはいられません。
階段を降りると、すぐに足を水面に浸しました。
冷たいと思いましたが、えい、ままよ、とも思いました。
前の人が後ろの人に、
「ここ段差あるよ!」
「ここ深いから気をつけて!」と声をかけながら、
行列になって進みます。
先ほど書いた、木材の刺さった隣家のあたりに来た時です。
「津波警報が出た!もどれ~!」
と後方から叫び声が聞こえました。
この声に、私は2、3歩引き返しました。
しかし、結局は再び脱出することを選びました。
振り返ったとき、屋上から脱出を見守る人たちが眼に入りました。
この人たちは、学校に残る方を選んだ人たちでしょう。
どっちが正しい選択だったのか、その時点ではわかりませんでした。
津波警報が出たのは本当でしょう。
しかし、今干潮を逃すと、次の干潮は21時。(6時間周期で干潮、満潮が繰り返すと聞きました。)
流石にその時間には脱出に踏み切れないと思いますから、
次のチャンスは明日になるということです。
その時、津波警報が解除されていればいいですが、果たして。
また、学校には食料がないので、今脱出しなければ、今日1日は食事がないということです。
他の被害に遭われた方に比べれば些細なことでしょうが、昨日の夜も食べていないので、
何か口に入れたい気分が私を支配していました。
明日空腹で強行するのと、今体力がある状態で強行するのと、どっちがいいか。
救助もいつ来るかわからないし・・・。
本当に数秒の間に、いろんなことが頭を駆け巡って、そして強行を選びました。
後でS君と仙台への道すがら話したことですが、
あの時私たちは、死を覚悟したという感じではなく、単に胆を決めたという感じだったね、と。
その時、死はどこか遠い所にあって、思考のどこにもなかったように思います。
とにかく、ここを出たい。
この孤立したところから脱出したい。
そういう思いでした。
ジャブジャブいいながら歩いて行くと、なるほど45号線は歩いていける感じです。
しかし水位は脱出したところと大差なく、道路の真ん中に草が生えてる、
一段高くなったところを歩いていけるだけでした。
想像はしていましたが、45号線に広がる光景は無残と言う他ありませんでした。
いたるところに車が転がっています。
学校に近くのセブンイレブンには多数の車が突っ込んでいました。
広い駐車場が今回は災いになったようです。
付近の工場などからも人がたくさん出てきていました。
怪我をしていて、仲間に助けてもらいながらの人もいました。
この時もできれば写真を撮っておきたかったですが、
あいにくケータイの充電が切れてしまい、撮影することができませんでした。
不意に、戦場カメラマンとか、ジャーナリストの気持ちがわかったように思いました。
こんな悲惨な状況下で、写真を撮りたいという願望がモリモリ湧き上がる不思議を感じました。
先生に言われたように、文化センターを目指して黙々と進みました。
途中、また強行したところと同じぐらい水に浸りながら進むところがありました。
一番深いところでは、股の下ぐらいまで来ていたと思います。
トランクスがギリギリ濡れないぐらいのところです。
どんどん進んでいって、文化センターまでの横道に入ろうとしたところです。
自衛隊の方が1人いらっしゃって、いろんな人の質問に答えています。
一緒に行動していた方が、その横道について質問されました。
見た感じ、そうだろうなぁと思っていましたが、ガレキや車が道をふさいでいて、
それ以上その道を進むことができなさそうです。
その場所まで来て、一緒に行動していたのが、
同じ科の5人でした。
5人で話し合った結果、文化センターへ向かうのはあきらめ、このまま45号線に沿って
仙台方向へ歩こうと決まりました。
先生の指示を守らない形になりましたが、連絡する方法がない以上、
それがベターなように思われました。
決定がなされたあたりから水は引いていて、普通に乾いた道を歩きました。
天気が良かったのも幸いしました。
歩いているうちに、濡れた靴も徐々に乾いていきました。
ちょうどこの辺りで車が密集しており、仙台側から車両は多賀城側に来れないようになっていました。
ここが津波が及んだ最後のラインだと思われます。
地震直後、安易に逃げ出したりしなくて正解でした。
車ならともかく、人間の足では学校からここまで逃げるのはまず無理でしょう。
脱出については大体こんな感じでした。
このあと我々は仙台方向に歩き続け、私がS君と長町モールのあたりに着いたのが
3時半ぐらいだったと記憶しています。
明日、また時間があればその途中についても書くかも知れませんが、概要としては以上になります。
最後に、昨日載せていない写真を数点載せておきたいと思います。
津波4
津波5
津波6
今回のこの経験は、私にとって生涯忘れることのできないことになるのは間違いないでしょう。
繋がれたこの命を、この経験を糧に有意義なものにしていく必要があると強く感じました。
読んで下さった皆さんがこういった災害に遭われた際に、
この記事がなんらかの助けになれば幸いに存じます。

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    ビル設備サービス科の訓練生です.。
    被災時向かいの3号舘におりました。
    ここの写真に私の車が流されるとこが
    写っており、改めて職員の方の指示に
    従って正解だったと思っております。
    いつ再開されるか心配ですが、お互い
    それまでがんばりましょう。




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